近江八景−石山秋月(いしやましゅうげつ)


 


 
 
 

石山寺から瀬田大橋方面を望む(撮影:1997年4月29日)

 この写真は、石山寺の展望台から撮ったものだが、偶然にも上掲の広 重の絵とアングルが同じであった。

 なお、東海道五十三次のいくつかの絵に実際の風景との顕著な違いが認められるとい う理由で、広重は実際には東海道を旅して上洛しなかった、あるいは途中で引き返した、という説があるらしい。しかしながら、この「石山秋月」を見る限り、 非常に写実的であり、想像で描いたとはとても思えない。また、先人の作品を真似て描いたのなら、広重が尊敬していた葛飾北斎の「石山秋月」の影響が見られ る筈である。しかしながら、北斎の「石山秋月」は、この広重の構図とは違い、右が石山寺、左が瀬田川という現実とは違う構図となっている。もし、広重が石 山寺を実際に訪れていなければ、わざわざ逆の構図を描くことはあり得ないと思う。

 また、広重が東海道五十三次を描く時に一部参考にしたといわれる東海道名所図会の 石山寺の項を見ても、広重の絵とはまったく違う絵が収録されている。


 とここまで、書いてふと気がついたが、石山寺から瀬田大橋−琵琶湖は真北の方角に なる。真北に月が出るなんてことはありえない。広重は紫式部が石山寺から琵琶湖に映る月を眺めて源氏物語を書いた、という話にだまされて、実際の月の方角 を確認しないで「石山秋月」を描いたのではないだろうか。

 葛飾北斎の「銅板近江八景」の石山秋月は下の通りで、瀬田川と石山寺の位置関係が 逆なのは、琵琶湖側から石山寺を眺めていると考えれば実景通りである。月も南に出ていて問題がない。

 やはり広重は、実地を見ないで「近江八景」を描いたのか、謎は深ま るばかりである。


 さらに、その後、馬頭町広重美術館に収録の近江八景をチェックしたところ、ここの 「石 山秋月」は、構図が北斎のものと同じ、
つまり北側から見て、月は正しく南天にあるものであった。

追記: 2006年1月4日
 馬頭町の広重美術館で購入した広重画業展の目録にあった石山秋月は、上記のHPにあるものと微妙に違い、湖上の島などが克明に書かれており、北側から見 ているとは断定できないものであった。



  その後、下図の通り、鈴木春信の「石山寺秋月」を発見したが、これは 広重の構図と同じで、ご丁寧に紫式部まで鎮座ましましている。

 さらには、元祖、という意味で、「石山寺縁起」の絵巻物をチェックしたが、この絵 巻物では、月が直接見えているのではなく、琵琶湖の湖面に月影が映っている、というものであった。
 

 以上を無理にまとめると、元々見立て絵であり、心象的な風景という意味合いが強 かったものを、広重の絵では、その要素を残して、月を現実にはありえない位置に置きつつも、その他の風景に実景のスケッチを重ねて採り入れ、リアリズムの 要素をつけ加えた、と言うことができるのではないだろうか。広重が本当に上洛したかどうかという点は結局不明なままとなってしまったが、謎は謎として取っ ておくのが粋、というものだろう。
 

















追記:2006年1月4日

 やはり、馬頭町の広重美術館で購った「広重肉筆画名作展」
の中にあった、「紫式部石山参籠図」がこれ。



これは、解説によれば安政初年(1854年)の作の肉筆画で最初の近江八景のものから20年後のもの。ここに来て石山寺縁起の絵巻物と 同じく、月そのものではなく湖面に映った月影になり、また、方角も西側から眺めている(実際にはその方角で実景をスケッチできる場所は存在しない=山の中 腹にでも潜伏するしかない)とすれば、実景通りとなっている。
 
 
 
 

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