追悼 糸木図南



  2004年4月18日、親友であったエッセイスト・歌人・俳人・作 詞家の糸木図南がこの世を去った。享年42。早世という年齢ではないにせよ、あまりにも唐突な死であった。彼の人生は文字通り酔生夢死とでもいうべきで、 その早熟な才能を十分に大成させることなく、この世を駆け抜けていった感がある。このページは、彼の高校時代からの親友としてその才を惜しみ、文人として 彼が残した必ずしも数多くない作品の中から、その一部をここに紹介するものである。

糸木図南略歴:

1961年8月生まれ
1984年3月東京大学法学部卒業
以後、同大教育学部への学士入学の後、地方自治体職員、
予備校講師、女子短大教諭、家業の商会の社長等の職業を
経る一方で、関西文学などの文学同人誌にエッセイなどを発表。

2004年4月 病没
 


1.諸子点描(エッセイ、関西文学 1994年8 月号掲載)

諸子点描

糸木図南

 古代中国、周の御代、どこかの図書館長でありました老子が、世にいう函谷関を通りました。ここの関守、その名も関尹子、盛大なるレセプションの後、老子 先生に申します。
 折角ですから何か一言書き残して下さいと。そこまで言われては、日頃、「言う者は知らず」と弟子に高言していた老子ですが、本来がヒューマニストですか ら、人の情というやつで、書きのこしましたる五千言、これぞ「老子道徳経」。
 今更、魯の孔丘に会えた義理でもなかろうと、忽然、姿を消しました。老子先生出奔におどろかないのがこのスクールのいい所、優等生の列子クンなど、孔子 あたりに書簡を送ります。「老夫子、道を得たり。汝、いかん」と。
 史記なんぞでは一口に「老荘韓非」などと言いますが、荘子は老子よりも古人だったらしく、言わないどころか知らないと言っております。
 荘周著す「荘子」の最初のあたりは、まことに至言で、現代語に訳すと、
「大きいものはそれより大きいものより小さい」
「無というものが無ければ、有というものも有りえない」
 アインシュタインもソクラテスも裸足で逃げ出すこと必定です。
 ただ、不肖の弟子はいつの世にもいるもので、「論語」が孔子の弟子十哲に書かれたように、荘子も老子も不肖の弟子の災いからは逃れられませんでした。要 するに、身から出たサビです。
 その点、墨子などは幸せで、墨家の弟子は鉄の軍団を組織して、挙句の果ては集団自決しています。教条主義と笑えないものがあるでしょう。
 孔子先生の儒家は、顔回などという、あやうく先生を上まわる門人が出た上、孟子に荀子という生真面目な「没後の弟子」に恵まれて、孔子が思った以上の発 展をとげてしまいます。「仁」とはでしゃばらない心なのに。
 かたや、荘子・老子の道家は、「無為自然」などとウソぶくなまけ者と、韓非子・李斯といった現実主義者(つまりは元気者)が「法」なる分家を起こしたお かげで、変わり者と嫌われ者の集含体みたいになってしまいます。「道」とは真ん中を歩くことなのに。
 何故、人間は道に迷うのでしょう。それは、道が増えすぎたためです。道が一本なら、迷うハズはないのです。儒家は人間に「地図」を用意しました。儒学の 尊ばれるゆえんです。法家は「お決まりコース」を用意しました。はずれると刑罰が待っています。
 然し、道家は最初から「道」は一つだと教えています。それは「天の道」「地の道」「人の道」、そしてこの三者は根源において一つだと言っているのです。
 以上、諸子点描、一巻の読み切りであります。

(t-maru評)
糸木図南のデビュー作。作家は処女作に向かって成熟する、と言われるが、彼の特長がもっともよく出ているのがこのエッセイである。「アインシュタインもソ クラテスも裸足で逃げ出すこと必定です。」といった若干幼稚に思える表現がないわけではないが、いわゆる諸子百家をずばり、と一 言で言い切ってしまえるのは、漢籍への深い知識をバックに持った彼ならではの真骨頂であった。




2. 風に吹かれて高野山(エッセイ、関西文学 1995年4月号掲載)

風に吹かれて、高野山

糸木図南

 八月十二日、その夜から徳島市内は阿波踊り一色になる。台風13号も接近中だが、観光客を満載した大型バスが各方面から集まって来た。私が学生連(れ ん)で鳴らしていたのは、十八、九の頃だから、かれこれ十五年も昔のことだ。
 そう思っていたら、亡くなった祖父の顔が浮かんできた。今から十六年前、私が高校三年生の夏、私が大学生になるのを楽しみにしていた祖父は帰らぬ人と なった。
 小学生の頃まで、祖父は毎年、高野山へ参っていた。町内会の団体をひきつれて、所謂、先達さんであった。私も幼児の時から十回以上は、祖父の高野詣でに 参加したはずだという。
 北室院(きたむろいん)という名門の宿坊に、毎回泊まっていた。私もかすかに記憶があるが、それにしても二十年以上も前のことだ。出かけてみようかと 思ったのは、その八月十二日、夜半のことだった。

 私の家から大阪へ出るには、鳴門の撫養(ムヤ)港から出ている「徳島鳴門特急汽船」が便利だ。大阪港天保山まで、高速艇で90分である。
 ところが、八月十三日の海は荒れていた。さすがに台風13号で、撫養港入り口のうねりがたかく本日の高速船は亀浦(かめうら)港に入港します、とのこと だった。亀浦港は鳴門海峡の西で、瀬戸内側だから波が静かなのだろう。
 大幅におくれて出港した特急汽船は、臨時に針路を淡路島の西側にとり、建設中の明石海峡大橋をくぐって、大いそぎで天保山に入港した。
 地下鉄を乗りついで、南海電車のナンバ駅に着いたのは午後三時である。高野山行き全席指定の特急「こうや」はもう出てしまって、特急「りんかん」で橋本 まで行って急行に乗りかえることにした。
 約50分で橋本まで着いた。このぶんだと、あと30分ぐらいで高野山か、と思っていたら、電車でも山登りはキツイらしい。
 真田昌辛、幸村父子が幽居した九度山(くどやま)はまだ序の口で、電車の終点、その名も「極楽橋(ごくらくばし)」までは一時間かかった。
 そこからケーブルカーで山上まで一気に登る。高野山は標高九百メートル近い山岳で、ケーブルカーからは、さっき渡ってきた海が見えた。何でもそうだが、 上から見ればおだやかなものだ。
 お盆のあいだはお客さんはお泊めしていないのですが、とおっしゃったが、汗まみれになって四国徳島から来た私をあわれに思ってくれたのか、北室院に泊め ていただけることになった。
 今夜は(十三日の夜)奥の院で「ろうそくまつり(万燈供養)」があり、全国の仏様が帰って来るというので仰天した。電車が混んでいたのはお盆で土曜の せいだけではなかったのだ。
 自慢でも何でもないが、私は至って不信心なタチで、生まれてこのかた三十有余年、一人でお詣りした経験が無い。東京で銀行員をやっている親友(よく考え ると彼は敬虔なクリスチャンだ)に連れられて、ひところ、京都や奈良の古刹を巡ったことがある。彼は、洛北大原とか上醍醐とか吉野山とか、道行(みちゆ き)のハードな処がとても好きだった。私は荷物の見張りをすると言っては、彼が戻ってくるのを門前で待つのが常だった。
 そう言えば、彼との第一回目の旅行は我々が二十二歳の春のことである。その朝、雪の大原三千院でクツ下の薄さに泣いて、夕刻、ようやく奈良に着いたのだ が、何と、その夜は東大寺二月堂のお水取りで、大松明(タイマツ)が振り回されていた……。
 そしてまた、八月十三日の夜、高野山では大松明が奥の院へ向かって行進していた。沿道の善男善女が手に手に持ったろうそくに、大松明の火を点じていく。
  国じゅうの思いあつめて万燈会
 このままつれて行かれそうな気がするな、と、参列の中からおばあちゃんらしい声がした。
 昔、私のようにふとしたはずみで高野山にやって来て、おまいりをして下山しようと麓までおりたら、何か忘れ物をしたような気になって再び山にかけあがり そのまま出家した人がいた、と聴いたことがある。私はヤバイ、と思う半面、わかるような気がした。高野山は、そんな気配がするのである。
  高野へは西より登る仏かな


(t-maru評)
  第1作とは趣ががらりと変わったエッセイ。自分自身では「私は至って不信心なタチ」 と書いているが、こういう題材を採り上げるのは、お遍路さんの本場四国在住のエッセイストならでは、というところだろうか。「全 国の仏様が帰って来るというので仰天した。電車が混んでいたのはお盆で土曜の せいだけではなかったのだ。」といった、独特のユーモアセンスもこの作者の特長。




3. 北野坂スナック「夢」(エッセイ、関西文学 1995年6月号掲載)

北野坂スナック「夢」

糸木図南

 神戸市北野坂、平成初年の日本で最もオシャレなこの坂を途中まで下って、左に折れたビルの地下、私の愛するスナック「夢」がある。震災で本殿が倒壊した 生田神杜の東方数百メートル、税関通りに横倒しになったビルの西側真裏にあたる。
 ママさんは戦後生まれの独身姉妹で、御本人の言では、色気は無いけど夢のある店。「最近、夢が無いですから」と立ち寄った一見さんの私を大切にしてくれ た。ママさん姉妹は須磨の自宅から三宮までバスで通っていた。ハナちゃんという常連のオバさんがいて、私が「夢」に行くと必ず後から現れた。
 古風な店だが、それゆえにあっさりした所が妙に文化的で、南方熊楠の御子孫も良いお客さんだとか。銀行を退職して二人姉妹が、諸経費高い三宮で「夢」を なんとか切り盛りして、今年が十周年。その初春に、阪神大震災が起こった。
 生田神社は全国の飲食業の守り神で、境内に大きな庖丁塚がある。土曜の夜の生田神社は、十七、八のヤングたちで足の踏み場もない。カップルで、グループ で、恋愛の森となる。境内の北に生田警察署がそびえたつ。その反対側、大鳥居の外側に、通称「愛のつぼやき」を売る屋台があった。
 兵庫の浜でとれる巻き貝を、サザエ風に焼いたもので、灘の酒に合う。この道二十五年というオジサンの、訛りに気付いて、
「御主人、生まれは九州、たぶん鹿児島でしょ」と訊くと、
「鹿児島県種子島」、独特のイントネーションが返ってきた。横できいていた先客の中年の紳士が、
「お兄さん、ようわかりまんな」「ええ、昔、鹿児島にいたもんで」−−−と、薩摩訛りの講釈をしてあげたら、中年の紳士は
「参考になりました」と言って引きあげた。屋台の御主人いわく、
「あの人、生田署の刑事でんね」
 うかつであった。様々な業界の人々が、恋を夢を金を悪を探しては大鳥居の下に集まる。その石の鳥居も倒壊した。夜の街の終わる時刻に。
 徳島県にとどいた震災の第一報は、「神戸が全滅した」という一種の流言だった。
「そんなアホな」、でも、徳島と阪神をむすぶすべての電話回線が不通になっていた。「夢のママさんは無事かしら、店がおわって帰宅する時刻だったけど」
 犠牲者のお名前の中に、ママさん姉妹は見当たらない。しかし、北野坂の地下にあったお店は瓦礫と化した。去年の五月の連休に、私の見つけた神戸の「夢」 が。
 ミナト神戸とミナト横浜、この二つの都会は似ている。神戸にあって横浜にないもの、それは山だろう。六甲山から薫風ふきおりる五月の北野は、おそらく日 本で一番美しい街だった。新神戸の高層ビルの下では、若いバンドや劇団のミニ・コンサートが無料で楽しめた。北野坂のビジネスホテル「北上(きたかみ)」 のレストラン「鴎外」には、文豪の著作がそろっていた。
 四国徳島に住む私にとって、知的刺激に富む、あこがれの向こう岸、神戸。千年の歴史をもつ港町・神戸が、一度の震災で亡びてなるものか。神戸を愛する者 として、私は平成の「兵庫開港」を待っている。
  


(t-maru評)
関西文学の阪神淡路大震災の追悼特集号に掲載されたもの。震災で崩壊した神戸への愛着をなじみのスナックを通して語ったもので、名人芸とまではいかないま でも、なかなか達者な筆だと思う。




4. 天下第一(エッセイ、関西文学 1996年9月号掲載)

天下第一

糸木図南

 中森から電話があったのは、例によって唐突だった。
「どうしたんだ、いつかけても居ないから、家庭が崩壊したのかと思ったぞ」
 とは勝手な話で、中森の方こそ会社の寮の自室には電話すら引いていない。
 彼は、東京の大手企業の国際営業マンで、諸外国の顧客相手に国際電話一本で自社製のパソコンを販売している。にも拘らず、そう多くもない国内の友人たち とは「付き合いを断って」久しい。
 私は、高校の同級生だった中森の二十年来の親友中の親友だから、一年に一度必ず彼の方から電話がかかる。
 一昨年の中森からの電話はゴールデン・ウィークの直前だった。
「話がある」「なるほど」とストレートな交渉で連れて行かれたのは五月の那智の滝。
 話というのは、彼も大手企業に入って十年、そろそろ決断の時で「来年あたり会社を辞めて海外へ行こうと思う」というものだった。パプルの後はリストラ と、東京のやつは東京なりに苦悩がある。
「さみしくなるなぁ」と二人で見上げた那智の滝は、折から空前の水不足で、もうひとつ迫力が無かった。
 中森がつぶやいた。「ここは痛そうだ」。「オレもそう思う」。水量が少なく岩肌のみゴツゴツした夏の滝は、今にも飛ぴ込みたくなるような感傷は誘わな い。
 あれは二人が学生の頃、中森と私は日光・華厳の滝を見に行った。太宰治は『富士に就いて』の中で、
  所謂「天下第一」の風景にはつねに驚きが伴わなけれぱならぬ。私は、その意味で、華厳の滝を推す。
 と看破した。折しも秋の候、十九歳の学生だった中森と私は、何より華厳の滝の水量の莫大さに「たしかに」驚いた。そして、どちらからともなくつぶやい た。「これなら死ねるな」。「無理もない」。
 あの時の二人は、巌頭に立った藤村操の心境よりも、自殺の手段としての滝の説得力に感動していた。
 あれから十五年、一昨年の初夏の那智の滝は、自殺には不向きであろうと思われた。
 昨年の中森からの電話もやはりゴールデン・ウィークの直前、しかも冒頭に述べた通りの唐突さであった。
 那智の滝から一年「まだ日本に居る」中森の、東京からの電話は、「奈良の大仏を見たことがないから連れて行け」という趣旨だった。さる外国の客人から 「奈良の大仏は大きいか?」と尋ねられて答えられなかったからだ、という。
 私の友人には何故か、京都・奈良という日本的観光地に不案内な中央のピジネスマンが多い。修学旅行が現代では、旧跡を訪ねた昔とくらぺ、あまり正しく機 能していないのかも知れない。
 かくて一九九五年四月三十日、私と中森はレンタカーの人となり、西名阪から大和路へ向かった。こういう場合の運転手は私。まさか大仏見物とは思うまい。
 連休でにぎわう奈良公園、めずらしいのは観光客向けの人力車である。俥夫はアイドル系の若い男の子で、俥(くるま)は二人乗り。たまたま客のギャルニ人 組と俥夫クンが、顔のポーズまでつけて記念撮影していた。
 一方、中森は「鹿せんべい」に興味をもって、買ったとたん、約十頭の鹿に囲まれて困っていた。鹿という動物は案外、大きくて強い。また奈良公園の鹿は人 慣れていて現金である。
「うーむ、おとなしそうな顔をしおって……」
 と中森。因みに彼は人間の女にも厳しい。
 いざ、大仏殿へ。
 本当に生まれてはじめて奈良の大仏を見上げた中森は、「たしかに大きい」と一言うめいた。「タイで見た涅槃仏も大きかったけど、こっちの方がぐんと迫力 がある」と、彼にしては素直なことを言った。「たしかに大仏だなぁ」。
「大仏」には、「大きい仏」といいう意味の他に、「超(ウルトラ)仏」というニュアンスがある。つまり諸仏に超越した仏である。失礼ながら、並の仏様たち とは次元が違うらしい。
 身の丈、十八メートルの実寸よりも、初対面の驚きこそが、大仏たる所以だろう。太宰のひそみにならえば、「天下第一」の大仏にはつねに驚きが伴わなけれ ばならぬ。
 大自然にせよ人為にせよ、ものごとの本質はシンプルなんだな、と私は今年限りで日本を去るという二十年来の親友の素直な横顔に魅入っていた。

(t-maru評)
明らかに私(t-maru)を題材にしたもの。元々、私の名字がそのまま使われていたが、そこだけは別の名字(中森)に変更させてもらっている。個人的に は、かなり脚色されているとはいえ、虚実皮膜の実の部分によりかかりすぎのような気がする。ちなみに私は現在も日本に居ます。(笑)




5. 恩師(エッセイ、関西文学 2003年2月号掲載)

恩師

糸木図南

 昨年の春、私は大きな計報を受け取った。亡くなったのは永里秀夫先生−−−私の高校時代最大の恩師である。先生は私より丁度、五十歳年配の八十六歳で あった。
 永里先生逝去の知らせは、国内外に散らばる同窓生たちにインターネットを通して伝わり、先生を偲ぶ各世代のOBたちから多くの弔辞がメールで寄せられて 来た。
 先生は、私の生まれた昭和三十六年から、私が卒業した翌年の昭和五十六年までのニ十年間、私の母校で教鞭をとり続け、許多の卒業生を世に送り出された。 本来ならば終身契約で、死ぬまで教壇に立つことを願っておられたが、心臓を悪くされ勇退して療養中であった。
 私の母校は鹿児島市にあるカトリック系の私立男子高校で、永里先生は漢文の先生だった。私のもついささかの漢籍の素養はすべて永里先生の学恩によると 言ってもよい。
 今年、創立五十周年を迎える母校の二十九期生である私は、同期生中最も永里先生のお世話になった。十五歳で単身、見知らぬ土地へ来た私を先生は内弟子の ようにかわいがって下さった。そして漢文のみならず、先生からは教育者の真骨頂というものを学んだ気がする。
 鹿児島の夏は暑い。七月の猛暑の日、教室で我々に言った。「いくら暑くても永里が浴衣がけで出てきたら、皆さんのやる気を殺(そ)ぐ」。やる気がないの は生徒の方だったろうに、先生は決して生徒を悪くは言わなかった。
 母校の校舎からは、錦江湾をはさんで桜島の雄姿が見える。「桜島の偉大さは、どこからでも見えること」。これも永里先生の名言として私に残っている。
 大学受験までの三年間を鹿児島で過ごす、ただそれだけだと思っていた私は永里先生の薫陶のおかげで、十五歳から十七歳という人生で最も多感な三年間を有 意義に過ごせたとしみじみ思う。この三年間は私の人生を決定づけた。
 先生はかねがね「忘れ得ぬ生徒たち」という本を著すつもりだと言っておられた。先生が教師生活をおくった旧制中学や女学校から新制高校そして私の母校ま での約半世紀に出会った生徒たち−−−その最後の一人は私になる予定だった。だが、それは終いに幻の名著におわった。
 私が大学を出て、曲がりなりに教育者への路を歩みはじめた頃、入院先へお見舞いに伺った私に、先生はこう言われた。「学校が焼け落ちる時、そこに居る者 が真の教育者ですよ」。それは先生の戦争中の体験によるものだった。
 戦争末期、先生の赴任した旧制加治木中学が米軍機の空襲にあった。当時、生徒は戦友と呼び合っていた。空襲に際して教えられた通りにバケツリレーで校舎 の火を消そうとしていた戦友たちが逃げおくれた。先生は戦友に早く防空壕に入れと指示した。そして永里先生と共に防空壕へ走った戦友の幾名かが機銃掃射に たおれた。校舎は炎上した。
「しかし、配属将校は一人も来ませんでした」。
 翌年、入院中の永里先生から分厚い手書きの手記のコピーが私の許に届いた。手記には「生徒が神に見えた日」と表題があり、鹿児島県立一高女精神とサブタ イトルが付けられていた。先生の手記には不自由そうながらも確たる筆致で次のような事が述べられていた。
 終戦後三年、鹿児島一高女(第一高等女学校)で一泊二日阿蘇登山の修学旅行を行うことになった。引率の永里先生以下二十名の女学生が夜汽車に乗った。そ の時、二名の若い米兵が女生徒にふざけて抱きつこうとしたが、女生徒の毅然とした肘鉄に撃退された。さらに女学生たちが立ち上がって賛美歌を斉唱したとこ ろ、二人の米兵はおとなしくなり直立不動で賛美歌に耳を傾けた。
 永里先生の筆は語る。「私は神の声を聞いたような深い感銘を受けた。一高女精神ここにあり。あらゆる物を包括して浄化してやまない綜合力よ」。
 いま生徒の姿に感動できるセンセイが日本にどれだけいるだろうか。私は永里先生が教壇を去る直前にその謦咳に触れ得たことを、白分にとって運命的に幸せ なことだと考えている。そして、教育者としての自分を反省しつつ、永里先生から預かったものの「大きさをひしと感じている」。

(t-maru評)
永里先生は実在の先生で、筆者も教えを受けている。エッセイ中にある通り、糸木図南は永里先生に非常に可愛がられた。(進学校であった高校の同期の中で、 彼は古文・漢文に関しては成績1番であった。)しかしながら、死者を責めても仕方がないとはいえ、図南がその受けた恩を十分に返すことができなかった、と いうのも事実であろう。こうしたエッセイを書くことで恩返しになっているとも言えるが、本当の恩返しは彼が文人として大成することではなかったか、と思 う。




6. 洛陽の紙価(エッセイ、関西文学 2004年4月号掲載)

洛陽の紙価

糸木図南

 西晋の左思は「貌寝」、すなわち身長が低く醜かった。しかも「口訥」、はなはだ口べたであった。
 しかし「辞藻壮麗」、その文章たるやすぐれてうるわしく、他人との交遊を好まず「惟だ閑居を以て事と為す」。
 小人は閑居して不善をなすが、左思ほどの才人、閑居して為さざることなく、考想十年『三都賦』を造る。
 三都とは三国時代の蜀の成都・魏の鄴都(ギョウト)・呉の建業のことで、西晋によって亡ぼされた前代の廃都である。西晋の文人には心ひそかに三国の昔を 懐しむ者が多かった。
 賦とは、魏晋南北朝時代(六朝時代)に盛んだった抒情的な韻文で、宋の蘇軾の『赤壁賦』が有名である。因みに「赤壁」も三国時代の魏と呉の古戦場の名で ある。
 三都を賦さんと志した左思は、西晋の都・洛陽に移居し、家中の至るところ、厠にまで紙筆を備え、常時、想を練った。これを「左思十稔」という。一方で、 自ら三都の跡に足を運び、三国の英雄時代に思いをはせた。
 かつてこの地に曹操が、関羽が、諸葛孔明が王覇の道を競った。そう思うとき左思の筆はふるい、辞藻壮麗の文は成る。懐旧の情、談古の意。騒客の心はおさ え難い。
 西晋王朝は三国の戦乱を統一し、中原に一時的安定をもたらしたが、その内実は政争に明け暮れ必ずしも明るいものではなかった。その西晋の治下で、三国を 称賛する文章を書くことは危険なことであった。
 間違えれば死を意味する。それを冒して三都賦を造らしめたのは左思の文藻というものだろう。
 左思の三都賦の噂は、三国を偲ぶ洛陽の文人たちに水面下で静かに広まっていった。交遊を好まなかった左思だが、皇甫謐(コウホヒツ)・張載・劉逵(リュ ウキ)らの高名な文士がすすんで三都賦に序文や注釈をほどこした。
 三都賦のひそかな名声はいや増したが、西晋王朝のもと公然と上梓することはできない。そこで洛陽の文士たちは三都賦を筆写すべく、自ら市中に紙を買い求 めに赴いた。そのため洛陽中の紙価が上がった。
 「豪貴の家争って相伝写し、洛陽之(こ)れが為に紙貴(たか)し。」(「晋書」左思伝)
 「洛陽紙貴」、「洛陽の紙価を高める」の語源である。
 一般にこの言葉は、ベストセラーの書物の形容に使われるが、一定の政権の下で堂々と出版できない書物が心ある文士らの手によって筆写された、という故事 にもとづくことを忘れるべきではない。いにしえの文士の心意気がうかがえる美談である。
 身分の高い、従って召使いをかかえている文人までが、ひそかに自分で紙を買い手づから筆写したのである。その中には当然、西晋王朝の高官らもいたであろ う。 左思、字(アザナ)は太沖。西晋二代恵帝の永興二年(西暦三○五年)没。
 西晋が亡んで、かつての三国の呉の都・建業に 移り東晋となるのは、それから十二年後のことである。西晋は洛陽を捨てたが「洛陽の紙価」の名は永く後世に残った。


(t-maru評)
こちらで確認できる、生前最後の作品。デビュー作に戻ったかのような、彼ならではの中国故事来歴の蘊蓄もの。友人としてはこの路線を徹底して欲しかったと 思うが、編集部からの意向などもあって、なかなか思うようには書かせてもらえない、ということもあったようである。(この項のテキスト化には、同じく図南 の親友であったH氏のご協力をいただきました。)





7. 不逢坂(作詞、作詞時期不明1994年〜96年頃?)

不逢坂


 図南は、エッセイだけでなく、俳句・短歌、小説、またここにあるような 演歌の作詞なども手がけていた。小説のような長いものは、正直彼には向いていなかったように思う。また、詩作の世界においても、芸術の香り高く、といった ものより、ここにあるような大衆的な作詞の方にその才能が発揮されていたように思う。野々宮一博氏は徳島在住のプロの作曲家であり、作詞の同人誌に発表さ れた図南の作品が目に止まって、何作かこのコンビの作詞・作曲のものがある。残念ながらここに紹介するもの以外は散逸してしまって、現在手元にはない。

(注:上記作品を転載するにあたり、著作権につきましては、著作権の継承者である御母堂に口頭でのご許可をいただきました。)


(2005年5月8日記)


 
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