「原(ばる・はる)、丸」地名と吉野ヶ里遺跡
 
 
 
 



 
 

 連休を利用して、「原(ばる・はる)、丸」地名の実地調査に、吉野ヶ里遺跡と田主丸に行ってきました。

 吉野ヶ里遺跡は、ご承知の通り、1989年に発掘が開始された国内最大級の弥生時代の環濠集落遺跡です。場所は、長崎自動車道の東背 振I.C.から車で5分ほど南に行ったところで、佐賀平野のど真ん中、すぐ北に背振山地を望み、南には筑後川が蛇行する地にあります。この近辺にも、「中 原(なかばる)」、「城原(じょうばる)」、「唐香原(からこうばる)」などの「ばる・はる」地名、また「薬師丸」「米丸」などの「丸」地名が多くありま す。また、「吉野ヶ里」以外に、「田道ヶ里」、「西小津ヶ里」などの「〜里」地名が、このあたりに集中しています。韓国では、地名が音読みに変えられる前 に、「〜里」と書いて「〜マル」と読む地名が多く存在しました。ここの「〜里」地名も、元は「〜マル、バル」でそれに「〜里」の漢字が当てられ、その後音 読みに変化したのではないかと想像します。

 また、吉野ヶ里の展示館に、この近くの弥生集落の分布図がありましたが、ほとんどが佐賀平野と背振山地の接点にありました。これは、 この近くの「〜原(ばる・はる)」地名の分布とほぼ一致しています。これは、「〜原(ばる・はる)」地名の起源が弥生時代で、集落を表す地名接尾語であ る、という仮説の傍証になると思います。


 


 この2枚の写真は、復元された「環濠」です。左は、竪穴住居の集落を囲む環濠、右は「内郭」と呼ばれる首長、権力者が 住んだり祭政を行う場所を守る環濠です。いずれも深さは1.5m程度でしたが、弥生時代にはもっと深かったのかもしれません。


 これは、その環濠に守られた竪穴住居群です。かなり密集して「家」が建てられていたこと、一つ一つは小さくて、おそら く住んでいたのは小家族単位か、などといったことがわかります。

 
 
 


 左がやはり、「内郭」の一つ、右は吉野ヶ里遺跡を有名にした「物見櫓」を復元してみたもので、まさしく魏志倭人伝の世 界を彷彿させるものです。環濠にしても、物見櫓にしても、やはり集落を「守る」ためのもの、全体的に吉野ヶ里遺跡は、単に住む場所だけではなく、戦闘的性 格を持った「城塞」「砦」である、という感を強くしました。

 
 
 


 最後になりますが、吉野ヶ里を訪ねた後、高速を20分ばかり走って甘木I.C.で降り、田主丸を訪ねてみました。ここ は、別ページでご紹介したように、慶長年間に菊池丹後入道が開いた、とされていますが、実際には古墳時代の遺跡も多く存在し、弥生時代にも多くの集落が あったと想像できます。また、邪馬台国をこのあたりに比定する人もいます。吉野ヶ里−田主丸と続けて訪れて、その景観の類似性が強く印象に残りました。と いうのは、どちらも「屏風(びょうぶ)」のような山地と筑後川に挟まれた平野に位置するのです。つまり、吉野ヶ里は、北から背振山地−吉野ヶ里−筑後川、 となっており、田主丸は逆に北から筑後川−田主丸−耳納(みのう)山地となっています。

 簡単に図示すると、
 

背振山地  背振山地 背振山地

吉野ヶ里

筑後川 筑後川 筑後川 筑後川 筑後川 筑後川 筑後川 筑後川

                                      田主丸

                       耳納山地 耳納山地 耳納山地


 
とこのようないわば対称的な位置関係になっています。上の写真は左が吉野ヶ里から見た背振山地、右が田主丸から見た耳納 山地です。きわめてよく似た景色であることがおわかりになるかと思います。ちなみに、日本のことを「秋津洲(あきつしま)」と言いますが、これは大和盆地 の地形が山と山がトンボ(秋津)が交尾して連なって飛ぶようにつながっている、と神武天皇が言った、ということにちなんでいます。安本美典という人が、 「邪馬台国東遷説」を唱えていて、その根拠として、甘木付近の地名と大和盆地の地名の類似を挙げています。そういった地名の類似もですが、上記のように、 景観としても、吉野ヶ里−田主丸(甘木)−大和盆地に共通のものがあるようです。

 
 
                                                                                                                         (2002年5月3日記)
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