遊惰(ゆうだ)に流れんとする学生に(保証人より)
 
  この頃の寒気に御さはりも無き御様子にて、先ず先ず安心致し候。
実は久しく御出無之によりいかにやとお案じ申せし次第なり。しかし聡明にして勉強好きの足下、健康でさへあれば他は安心と思ひの外、さる確かなる筋より承聞するに、この頃は学校の課業も怠り勝ちにして懦弱(だじゃく)なる軟文学の耽読に日を消さるるのみならず、折々は悪友と共に不名誉の場所へ行かるるとの事、果たして事実なりや、如何。御国許の父君より、昨今屡(しばしば)予定以外の送金を請求し来るは何か仔細なきかとの御手紙ありしに対し、政夫君に限りて御心配の事ある筈なしと保證しおきしが、今思ひ出づれば、老生こそ監督を依頼されながら迂闊(うくわつ)の至り、申訳なき次第なり。更めて申す迄も無く、足下は父君が老後の一人子にして、六十一歳の父君と五十七歳の母君とが杖とも柱とも頼まるるは足下一人、それに失礼ながら有り余る巨万の資産と云うにもあらず、御両親が今尚辛苦奮闘の収入を割いて纔(わず)かに調達せらるる貴重の学資を無意味に消費せらるること子の道に候哉(や)、血あり涙ある者の出来べき事に候哉。況んや卒業期は近し、以前よりも勉強一倍にして優等の成績を挙げられてこそ御両親も力ある次第なるに、何ぞや大切の課業を抛(なげう)ち、学生時代より人間研究などと号して悪所に出入し、軟弱なる小説類を綴(つづ)り小雑誌に投書して得々たるが如き、つやつやその意を得る能はざる所に候。就(つい)てはこのままに進まば卒業試験も多分むづかしからんと聞きし時の老生の驚愕、万一さる事あらんか、御両親の老(おい)の落胆目の前に見えて何ともいひ様も無き事に候。察するに足下の聡明を以て濫(みだ)りにその如き品行あるべき道理無し、一は悪友の誘惑、一は軟文学の感化にして一時的迷妄に過ぎざらんとは信ずれども、或は叉将来文学を以て専門とせんとの意向ありてにはあらざるか。若し後者とすれば、これ大いに考物なり。何の専門にもその修行には順序あり方法あり、叉それぞれ機関の学校あり、どの道普通教育は完修せざるべからざる事に候。之を忘れて軽佻に噪(さわ)ぎ立つるも到底成功の見込なきのみか、遊惰放蕩の悪結果を心身に受けて、両親が長日の苦心も自家が貴重の将来も一擲(いってき)泥中に投ずるの惨を免(まぬが)るべからず、恐れても懼るべき断崖の上に立てる事を自覚せられざるべからず候。面会の上とくとお話したき考に候へども急に関西地方へ出張を命ぜられ、向(むこう)二週間不在に付き、取りあへず書面を以て御忠告申入れ候。老生が誠衷(せいちゅう)の言は御両親の御言葉なり、否足下が運命の神の託宣なり。速やかに猛省熟慮し、小生が、帰京までに打って変わりし政夫君を見るを得しめよ。切に祈る。
  尚々。御両親にはまだ何とも沙汰せず、卒業試験にはまだ三ヶ月あり、今にして翻然(ほんぜん)として悟らば、足下の天資を以てして及第疑ふべからず、足下は瑕(きず)なき孝子となるを得ん。叉悪友との係合(かかりあい)上今の宿にありて勉強不便ならば直ちに老生の宅へ引越されよ。家内に委細命じ置きたればいつにても構はず。居は気を移す、それが捷径(しょうけい)ならん。老生はどこまでも足下を信じ、足下を惜む者なり。
 
 

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