「土足で」を英語で何という?
− 「靴を脱ぐ」文化的意味 −



 
 
 
 

 「土足で」という日本語を英語に直したら何と言うのだろうか?手持ちの和英辞典を引いてみると、"with one's shoes on"と書いてあった。日本語の「土足で」には、「土足で踏みにじる」という表現があるように、「敢えてタブーを犯して相手を侮辱する」といったニュアンスが含まれる。しかしながら、英語のこの表現からは、単に「靴が履かれたままの状態で」という客観的な意味合いしか感じられない。

 2001年9月11日に起きたアメリカの同時多発テロの後、アメリカではイスラム教系住民に対する嫌がらせや攻撃が多発した。この事態を憂慮したブッシュ大統領は、わざわざワシントン市の中心部にあるイスラム寺院におもむき、そこで無思慮な嫌がらせや差別行動を行わないよう、アメリカ国民に呼びかけた。(9月17日)そのことを伝える新聞報道の中に、「ブッシュ大統領はモスクに入る際に靴を脱いだ」と、わざわざ書いているものがいくつか見受けられた。さらには、「イスラム教の規律に従って靴を脱いだ」とまで書いていた報道もあった。われわれ日本人にとって、神聖な場所に足を踏み入れる際に、靴を脱ぐことは別に特異な行動ではない。たとえば、日本の首相が靖国神社を参拝して、社殿に上がったとしても、その時「靴を脱いだ」ことが報道されることはまずないだろう。Webで調べたところでは、イスラム教徒の規律として、モスクの中で礼拝を行う際には、手と足を水で清めるのだそうだ。靴を脱ぐのはその準備行動にすぎず、敢えて「規律」と言うほどのものとは思えない。

 実は、この報道には伏線ともいうべきものがある。イギリスの作家、E・M・フォースター(1879−1970)という人の小説である「インドへの道」がそれである。この小説は「アラビアのロレンス」や「戦場にかける橋」で有名なデビッド・リーン監督によって1984年に映画化されている。この作品は、イギリスがインドを植民地にしていた時代を描いているが、その中の重要なエピソードとして、まさに「イスラム寺院で靴を脱ぐ」ということが登場する。つまり、ムーア婦人というイギリス側の良心を代表する登場人物が、他のイギリス婦人が人が見ていないと平気で土足でイスラム寺院の中に踏み入ったのに対し、一人靴を脱いで入った、というエピソードである。この行為により、ムーア婦人はインド人側の絶大な信用を得るようになる、というストーリーである。今回の報道は、おそらくこの話をふまえたものではないかと思う。(当時のインドにはヒンズー教徒とイスラム教徒が共生していた。第2次大戦後、両者はインドとパキスタンという2つの国に分かれる。)

 なにか、ちょっと聞くと心温まるエピソードのようだが、個人的には学生時代に初めてこの小説を読んだときから、釈然としない気持ちを抱いていた。今回のブッシュ大統領の報道をきっかけとして、ようやくそう感じた理由がはっきりした。さきほども述べたが、日本人にとっては、宗教的な建物に入る時に靴を脱ぐことはある意味当たり前で何も特別なことではない。それはおそらく当時のインドのイスラム教徒にとっても同じだったと思われる。にもかかわらず、イギリス人のフォースターにかかると、「インド人が」感銘するエピソードに祭り上げられてしまう。この理由は英米人の生活習慣から来ている。彼らは、基本的に家の中でも靴を脱がない。ベッドルームでも、トイレでもすべて「土足で」出入りして平気である。逆に言えば、彼らにとって人前で靴を脱ぐことが、ある意味で人前で裸になることにも等しい、きわめて恥ずかしくかつ異例なことなのだと思う。したがってわざわざ「靴を脱いだ」ムーア婦人の行為が、きわめて特異かつ勇気ある行動に見えてしまうのであろう。繰り返すが「特異かつ勇気ある行動」なのはイギリス人から見てであり、インド人(または日本人)から見てではない。

 皮肉にも、イギリスとインドの文化の違いを乗り越える象徴であった筈のエピソードが、そのこと自体がそれぞれの文化の違いを際だたせるものとなってしまっている。たった今行われているアメリカとタリバンの戦いも、元はといえばこのような小さな文化のすれ違いが長い年月積み重なった結果なのかもしれない。少なくともフォースターの祖国イギリスは、中東と西欧の対立を生み出す、ということにかけては、歴史上もっとも大きな貢献をしている。その意味でブッシュ大統領がフォースターの小説を意識して行動したとしたら、大いなる歴史の皮肉といえるかもしれない。

(2001年10月10日記)

 
 

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