「〜原(ばる・はる)」地名と「〜丸」地名



 
 
 
 
 
 
 

 『〜原』を『ばる』『はる』と読む地名」では、九州に多い「原」を「ばる・はる」と読む地名について、

(1)この地名がついているのは、稲作地帯に隣接する居住空間ではないか
(2)クニを構成する氏族の「館」といった意味があったのではないか
(3)何らかの軍事的意味があったのではないか
(4)他に九州に多い「〜丸」地名も語源的にはこの「〜原(ばる・はる)」と同じではないのか
(5)韓国語の「村」(マウル)が九州に入って「〜丸」地名になり、さらにこれの音が変化して「〜原(ばる・はる)」になったのではないか

といった仮説を提示してきた。

 続けて、次のような作業を行った。

(1)5万分の1地形図を用いて、実際の「〜原」「〜丸」地名の分布状況を調べる
(2)韓国語との関連について、先人の研究にあたる

 (1)については、福岡県内のすべての5万分の1地形図と、その他佐賀平野、大分市周辺、宮崎市周辺、都城市周辺、鹿屋市周辺(要するに「〜原(ばる・はる)」地名が多いところ)のものをチェックした。

 結果としてわかったことは、次の通りである。
 

(1)両地名の分布において、地理的条件の大きな差違は見いだしがたい。

(2)強いて言えば、「〜原(ばる・はる)」の方が平野部、「〜丸」の方がより山間部のような感じがある。しかし、佐賀平野や浮羽郡・甘木地方のように、両地名が混在しているところもかなりある。嘉穂郡の「九郎原」「九郎丸」のように、同じ名を冠する両地名がわずか5Km程度の距離で並立している場所もある。

(3)どちらも平野部から、山間の盆地、小さな河川が作るわずかな平地まで、広く分布している。
 

 下の図は、20万分の1の福岡県の地形図(福岡北部〜中部)上にある、両地名をプロットしてみたものである。


 前のページにも書いたように、「〜丸」地名については、宗像市から鞍手郡にかけてと、甘木市・田主丸町周辺および周防灘側の築城町・豊前市あたりに多い。飯塚市周辺や、福岡市西部(次郎丸)から糸島半島にかけても数ヶ所ある。

 なお、福岡県には、この「〜丸」地名として、「太郎丸」「次郎丸」「三郎丸」から始まって、途中「七郎丸」「八郎丸」が他県なのを除けば、「九郎丸」「十郎丸」までそろっている。こうした地名は一般には、鎌倉時代にさかのぼる「名田」(みょうでん)の名残だとされている。しかしそうではあっても、「太郎丸」「次郎丸」といった人名がそのまま地名になったのではなく、「太郎+丸」「次郎+丸」と解釈すべきだと思う。人名として、「〜丸」がつくものもありうるが、「太郎」「次郎」だけの方がはるかに一般的だし、また「〜丸」地名の別例には、菅原道真が衣装を着替えたことにちなむ「衣装丸」(現在の灰塚)などのように「+丸」と考える方が自然な例が多いからである。

 他にも、「〜丸」地名で起源が伝えられているものとして、「田主丸」がある。この田主丸は、慶長19年 (1614年)に土地の豪族であった菊池丹後入道が開き、地名の由来は入道の往生観 「楽しく生まる」から、だとされている。しかし、田主丸の近くを見ると、他にも金丸、徳丸、千代丸、持丸、仁王丸、十郎丸のように、「〜丸」地名が多数ならんでいる。入道の「楽しく生まる」が本当だとしても、このあたりでは地名の最後に「〜丸」をつける、ということをふまえての語呂合わせだと解釈するのが適当だと思う。

 結論として、「〜原(ばる・はる)」も「〜丸」地名も、何らかの集落を表す地名接尾語である、という確信は、地形図のチェック作業でいっそう深められることになった。



 
 続けて、九州の地名と韓国語の関係を調べるため、次の2冊の書籍を取り寄せた。

(1)草風館 朝鮮地名研究集成 (明治以降の、日本人による朝鮮半島の地名の研究論集)
(2)草風館 金沢庄三郎著 日韓古地名の研究
 

 (2)の金沢庄三郎氏とは、平凡社の世界大百科事典によれば、1896年生まれで東洋言語の比較研究の開拓者として世界的に有名な言語学者である。国語辞典の「広辞林」の編者でもある。

 上記の2冊から、私の仮説を補強する証拠となる事実、論をたくさん見つけることができた。以下、簡単にまとめてみる。(参照したのは、金沢博士の論文以外では、(1)に収録されている清水兵三の「現代朝鮮洞里名の研究」、中村新太郎の「朝鮮地名の考説」など。)


(1)朝鮮におけるもっとも普通に集落を表す名詞は「〜洞」「〜里」である。
(2)この2つと同じ意味で、位置や地勢により、村、坪、田、地、基、原、亭、站、 岱、 、津、谷、浦、城、島などを用いる。
(3)代表的な名詞の音読みと訓読み(韓国語の固有読み)は以下の通り。
 

 
漢字 音読み 訓読み
Tong Kor
Ri Maur
Chon Maur
Pyong Tur,Por,Pori
  
(4)これらの地名接尾語は、元々は多少の使い分けがあったが、かなり混同して使われている。

(5)里や村の訓読み(朝鮮語の固有読み)である Maur(マウル) には Mori(モリ)、Mari(マリ)、Mar(マル)、Mor(モル)、Mouri(モウリ) などの変化形がある。

(6)坪の訓読みの方も、Pur、Pari、Pori、Puriの変化形がある。(朝鮮語ではP音は語中ではB音に変わるので、これらはBur(ブル)、Bari(バリ)、Bori(ボリ)、Buri(ブリ)になる。

 (7)Porは古代においては「伐」の字を用い、三韓では「城」と同じ意味に使用されていた。その他、尚夫里、卑里、不離、八、巴利、頗利などの字も用いられた。

(8)金沢論文に引用されている白鳥庫吉博士(邪馬台国九州説を最初に唱えたことで有名な歴史学者)の説によれば、上記の Pur、Por が Mur に音が変化し、このMur がさらに Maur となった。

(9)金沢博士によれば、この Pur、Por は、日本語の古語では「フレ」にあたり(「プレ」と発音していた)、後の地名の「フル、バリ、ハル、ハラ」はすべてこの「フレ」が転訛したもの。

(金沢博士は言及していないが、江戸時代の福岡藩には、村を束ねたより大きな行政単位として、「触(フレ)」があった。また、壱岐にも集落につく名詞として、「触(フレ)」があった。また、日本語の「郡」は大化の改新の直後には「評」と書かれていた。これも「坪」地名との関連性がありそうである。もちろん、「洞=Kor」との関連も注目すべきである。さらに、魏志倭人伝の旁国の一つとして「巴利国」があるが、これも何か関係があるのだろうか。)


 上記の諸論で述べられている語源説を、私の仮説に適用すると、以下のようになる。

(1)九州の「〜原(ばる・はる)」地名は、古代の三韓で「城、集落」を表した「伐(Pur,Por)」と同語源ではないか。

(2)同じく九州の「〜丸」地名も、この「伐(Pur,Por)」が「Mur、Maur、Mar」に音が変化したもので、韓国語の「村(マウル)」と同語源ではないか。

(3)「伐」の持っていた「城」という意味が、「〜原(ばる・はる)」の方ではほとんど失われたが、「〜丸」の方には残り、後世「本丸」「二の丸」のような城郭の一部を表す名称として残ったのではないか。
 

 なお、金沢博士の論は、博士の長年に渡る真摯な東洋語研究の結果であり、その内容は十分傾聴に値すると思う。にも関わらず、博士の論が現在必ずしも一般に知られていないのには理由がある。博士が、上記のような研究を発表したのは日本が韓国を併合した時期と同じであり、その研究内容が、日本の植民地政策に都合のよい論理として利用されたのである。そうした経緯から、戦後は博士の研究内容は一種のタブーとみなされたのではないかと思う。

 九州で集落が発達し、クニが成立する弥生時代において、北部九州と半島の活発な交流は考古学的に見ても、まったく否定しようがない事実である。従って、そのころできたと考えられる集落の呼び方について、半島と共通性がない、と考える方が不自然である。今後、日韓双方において、過去の恩讐を越えた真摯な比較研究がよりいっそう進むことを心から望みたい。
 

(2002年3月21日記)

 

追記:2002年3月24日

 上記の「朝鮮地名研究集成」の中に、歴史学者である坪井九馬三の説が引用されている。それによると、古代朝鮮語の「伐(ポル)」はサンスクリット語の「pur」から来ている、と言う。この説がどこまで正しいか私には判別しかねるが、坪井九馬三は、歴史研究における史料批判の方法を徹底して体系立てた学者とのことなので、いい加減なことを書いているとは思えない。 しかしながら、この説が正しいとすると、

(1)古代ギリシアの都市国家である「ポリス」
(2)ドイツ語の地名接尾語で「都市、城塞」を表す「-burg」(ハンブルク、レーゲンスブルク、マールブルクなど多数あり)
(3)シンガポールの元の名前である"Singa Pura"の"Pura"

これらはすべて、「伐(ポル)」と、そして「〜原(ばる・はる)」「〜丸」と同語源ということになる。
現時点では、大風呂敷すぎると思われるので、この説を深く追究するのはやめておくが、大変面白そうなテーマではある。

 ついでに、これに関連する「とんでも」論を紹介する。あの大野晋大先生である。有名な「日本語タミル語起源説」を展開している岩波新書の「日本語の起源」において、氏はこういう論を展開する。

(1)タミル語には、「村・区域」を意味するpul-amという単語がある。
(2)一方日本語にはfureという単語があり、日本書紀などで村の意味で使われている。
(3)壱岐ではこの「fure=触」を実際に村の名前で用いている。
(4)これは壱岐にタミル人が住んでいた証拠である。 なに?

 ほとんど、「日本はユダヤ人が作った国だ」レベルの「とんでも」説であることは、このページを読んでいただいた方には瞬時におわかりになることと思う。

 まともに考えるなら、

(1)サンスクリット語→タミル語のルートで、pur→pul-amが伝わる
(2)サンスクリット語→古代朝鮮語→壱岐のルートでpur→por、pur→fureが伝わる
(3)(1)と(2)の結果として、タミル語と壱岐でたまたま同語源の単語が見られる

というだけのことである。(タミル語にサンスクリット語がたくさん入っていることは、大野氏自体がそう書いている。)第一、大野式の論がまかり通るなら、壱岐には古代ドイツ人(ゲルマン民族)が住んでいた、とか古代ギリシア人が住んでいた、ということも通ってしまう。木を見て森を見ない学者○○の典型であろう。
 
 

再追記:2002年3月26日

 さらに以下を調べてみた。

(1)サンスクリット語

 サンスクリット語の文法書を見て、"pur"が「城塞、市(いち)」の意味であることを確認した。

(2)東南アジア諸語とサンスクリット語

 大学書林の「東南アジア語の話」(松山 納著)という本で、タイ語、ビルマ語、ラオス語などに、サンスクリット語が借用語として大量に流入していることを確認した。(主に仏教の経典経由だが、それ以外の文化語彙もあり)

(3)purにちなむ地名

 ドイツ語の-burg、英語の-burgh(エジンバラなど)、ギリシア語の-polisなどは、サンスクリット語のpurに「相当する」語、という程度で、直接の語源ではないようだ。

 その代わり、直接purに由来する地名は、インド、東南アジアに多数発見できた。

  • インド
    • ジョドプール(Jodhpur、ジョド王の城塞都市)
    • ジャイプール(Jaipur、ジャイ王の城塞都市)
    • ミルザプール(Mirzapur、太守の城塞都市)
    • カーンプル(Kanpur
    • アナンタプル(Anantapur
    • ビジャープル(Bijapur
    • パンダルプル(Pandharpur
    • ブルハンプル(Burhanpur
    • パランプル(Palanpur
    • ビラースプル(Bilaspur
    • ライプル(Raipur
    • サンバルブル( Sanbalpur
    • マンガロール(Mangalore、Mangalapurが古形、幸運の城塞都市) 
    • マニプル(Manipur) 

    •  
  • パキスタン
    • ペシャワル Peshawar(Pushpapuraが古形、花の城塞都市)

    •  
  • バングラディシュ
    • ラングプル(Rangpur
    • ジャマールプル(Jamalpur

    •   
  • スリランカ
    • アヌラダプラ(Anuradhapura
    • スリ ジャヤワルダナプラ コッテ(Sri Jayewardenepura Kotte)

    •   
  • ラオス
    • シァニャブリー(Xiagnabouri

    •    
  • インドネシア
    • テラナイブーラ(Telanaipura

    •  
  • タイ
    • サンカブリー(Sangkhlaburi
    • トンブリー(Thonburi

    •  
  • シンガポール (Singapore←Singa+pura、獅子の城塞都市の意)

  •  
  • イラン
    • ネイシャブール(Neyshabur

    •  
  • トルコ
    • イスタンブール(Istanbul、Islam+bul イスラム教徒の城塞都市という語源説が有力) 


 なお、タミル語圏である南インドやスリランカにも多数例が見つけられたので、これもまた大野晋トンデモ説への反証となる。

 後の問題は、仏教伝来前に、どのようにしてサンスクリット語源の単語が三韓の地に伝わったか、の解明だが、このページをお読みになった方で情報をお持ちの方は是非ご教示いただきたい。
 

再々追記:2002年4月3日

 文化人類学者の吉田敦彦氏の研究によると、

(1)いわゆる記紀(古事記・日本書紀)の神話の中にはギリシア神話に非常によく似た話が多数ある。
(例:オルフェウスが死んだ妻エウリデュケを死者の国に取り戻しにいく話と、イザナキがイザナミを黄泉の国に取り戻しにいく話)
(2)一方、古代の朝鮮半島で、高句麗などの神話にも、ギリシア神話と共通する話が多く認められる。
(3)これは、遊牧民族であったスキタイ人が、東西に広く活躍した結果、遠いギリシア神話を朝鮮半島に伝え、それが日本神話にも入ったものである。

ということであった。(青土社、「日本の神話伝説」、吉田敦彦+古川のり子著)

 一方、仏教は、ガンダーラからやはりシルクロード経由で、4世紀頃朝鮮半島に伝来している。(日本へ伝来したのはご承知の通り、百済経由で6世紀。)また、高句麗は元々旧満州地域の夫余という遊牧民族の国から興った国である。

 以上のことから、いわゆる印欧祖語でサンスクリット語の"-pur"に相当する言葉が、スキタイ人経由で高句麗や三韓に伝わったということは十分ありうる。また、この"-pur"が意味する「城壁都市」は、元々はメソポタミアの地に発祥したものらしい。そうした「城壁都市」を持たないのが、スキタイ人などの遊牧民族であるわけだが、逆にいえば、城壁都市とは、第一の目的は遊牧民族の侵略から都市を守るためのものである。そういう意味で、遊牧民族にとっても「攻略すべき対象」として重要だった筈である。従って、「城壁都市」を意味するサンスクリット語の"pur"が、遊牧民族であるスキタイ人経由で朝鮮半島に伝えられたということは、十分にありえることだと思う。

 
ホーム