川村湊氏の「『大東亜民俗学』の虚実」

 



 

 
【著者】川村 湊(かわむら・みなと)
【書名】「大東亜民俗学」の虚実
【出版社】講談社 講談社選書メチエ80
【発行】1996年7月10日第1刷発行
【ISBN】4-06-258080-2 C0339
【価格】1456円(税別、1999年末時点)  
 
 
 
 「大東亜民俗学」とは、聞き慣れない言葉である。川村氏によると、この言葉は、昭和18年に台湾の雑誌「民俗台湾」で行われた柳田国男を囲む座談会の副題として使用されていたものだそうだ。いうまでもなく、柳田国男は、日本の民俗学の創始者である。

 川村氏によれば、柳田国男は、その研究の初期においては、各国の民俗を比較して研究する比較民俗学の視点を決して軽んじてはいなかったという。ところが、有名な常民−山人の対比研究や巫女の研究において、朝鮮におけるムルダン(朝鮮・韓国でのシャーマン)と日本の巫女との比較に研究が及んだとき、
(1)ムルダン−巫女が一種の差別対象、賤民として扱われてきたこと
(2)日本の巫女が元々は半島から渡来してきたものである可能性があること
(3)日本の神話における天照大神他の女神に一種の巫女的性格を認めうること
といったことが次第に予見されるようになってきた。これらのことは、つきつめていくと、日本における被差別部落の起源の問題や、天皇家の始祖を半島・大陸に求める、といった、当時の日本における大きな「タブー」に直接触れるものであった。

 この問題に対する柳田の態度は、学者というより、当時貴族院書記官長であったまさしく役人的なものであった。つまり以後柳田は、当時植民地であった朝鮮・台湾を含む近隣アジア諸国との比較民俗学を禁じ手にしてしまう。これはその弟子達にも受け継がれ、結果として日本民俗学は、「一国・民俗学」となり、きわめて「新国学」的なナショナリズムの強いものに堕していくことになる。

 それだけならまだしも、冒頭の「大東亜民俗学」とはさらにそこから180度ねじれたものであった。それは政治での「大東亜共栄圏」思想の確立や満州国の成立と歩調を合わせ、かつての比較民俗学的視点とは似て非なるものであった。つまり各国の民俗を対等に比較研究するのではなく、あくまで日本が中心にあって高い地位を占め、その民俗を研究する日本民俗学が至高のものであった。朝鮮・台湾や満州、そして南方諸島は日本の周辺にあって教化・啓蒙していく対象として置かれた一段と低いものであった。そういった社会を研究する民俗学は単に日本の優位性を検証する素材を提供するだけであり、さらには植民地支配を効率的に行うための一つの道具にすぎないものであった。

 川村氏のこの論述は、当ページ作成者にとって非常に刺激的なもので、特にこれまで疑問に思っていた次の2点に対して、一つの解答を与えてくれた。

(1)日本民俗学の勃興の時期、柳田国男の友人かつ論争相手として、しばしば  南方熊楠が登場する。熊楠は博覧強記でかつ何ヶ国語もの読み書きをこなす人間であり、民俗学的な問題についても、常にといっていいくらい比較民俗学的視点で発言している。にもかかわらず、こうした視点をしばしば柳田は否定し、またそういった比較文化的視点がその後の日本民俗学でついに主流となることはなかった。

(2)川村氏も後書きで書かれているように、日本と朝鮮・韓国の民俗を比較する研究が、特に日本の側で極端に少ない。(当ページ作成者が指摘する「メンタイコの語源問題」も僭越ながら一例とさせてもらいたい。偶然かも知れないが、シベリア→満州地区→朝鮮半島→日本というシャーマンの伝播の経路は、当ページ作成者が想定する「メンタイ」という言葉の伝播経路とよく似ている。)
 

 その他、この本の中では、朝鮮に留まらず、台湾、南方諸島、満州における当時の民俗学的研究の内容についてもよくまとめてあり、その点だけでも興味深く読めるものである。特に当ページ作成者は、大学時代、文化人類学、日本民俗学、朝鮮民族誌などを少しずつ囓ったこともあり、ある懐かしさを感じるものであった。
 
 
 

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