柳宗悦の「朝鮮の友に贈る書」、
「失われんとする一朝鮮建築のために」
 
 
 
 韓国を訪れる日本人はこのところ急増しているらしく、1999年の統計では、ついにハワイを抜いて韓国が日本人の海外渡航先のNo.1になったと聞いた。そんな日本人観光客はほとんどがまず首都ソウルを目指す。そして、ソウル市内観光といえば、まず訪れるのが「景福宮」だ。これは、李朝の宮廷跡であり、日本で言えば皇居や京都御所にあたる。この「景福宮」の正面南の入り口にそびえ立っているのが、正門である「光化門」だ。かつて、この一つの朝鮮建築を心から愛し、それが同じ日本人の手によって破壊されることに対し、雑誌に抗議文を発表して守ろうとした一人の日本人がいた。それが、宗教学者であり、また民藝運動家として知られる「柳 宗悦(やなぎ むねよし)」(1989〜1961)だ。

 日本は、日清・日露の戦争の後、1910年に朝鮮を併合した。その支配を強めるため、この景福宮の南正面に、巨大な総大理石でできた朝鮮総督府を建築しようとした。その際に邪魔であった光化門を破壊しようとしたのである。(この朝鮮総督府は、つい数年前までそのままの姿で残っていて、長く韓国の国立博物館として使われていた。しかしながら、現在は完全に破壊・撤去され、今回訪問した時には、同じ場所にて、昔の宮殿を復元する工事が行われていた。)

 柳宗悦は、1916年、27歳の時に初めて朝鮮を旅し、特に李朝の陶芸を中心とする朝鮮芸術に深く心を奪われた。そして、かの地の芸術に心を奪われていく過程で、生みの親である民族への尊敬も深めていった。同時にそれは、日本の武力に頼った対朝鮮政策に対しての強い批判へとつながり、「朝鮮人の味方」として積極的な言論活動を行うこととなった。そうした言論の代表作が、1920年に、「三・一独立運動」の弾圧により朝鮮人のおびただしい血が流された後に発表された「朝鮮の友に贈る書」、そして、1922年に雑誌「改造」で発表された「失われんとする一朝鮮建築のために」である。この2つの著作とも、日本国内、国外で大きな反響を呼ぶことになり、ついには朝鮮総督府も、光化門の破壊を取りやめ、移設へと切り替えることになった。(余談になるが、移設された光化門は、その後、朝鮮戦争で焼失してしまう。大きな歴史の皮肉と言うべきか。現在あるもの{下の写真}はその後再建されたコンクリート造りのものである。)その代償として、宗悦はその後、危険人物として、朝鮮渡航の際には警察の尾行がつくようになってしまった。しかしながらその一方で、当時の朝鮮の人からは、「東京には我らの同胞がいる」とまで慕われることになった。「柳宗悦」という名前が朝鮮でもそのまま通用するものであったからである。

 この2つの著作は、現在岩波文庫の「民藝四十年」に収録されている。私はかつて頻繁に仕事で韓国を訪れていた頃、いつもこの本を持参して、行きの飛行機の中で読むようにしていた。「朝鮮の友に贈る書」の中に、「日本は未だ人間の心に活ききってはいない。しかし若い精神的な日本がここに現れて、いつか刃や力の日本を征御し尽くす事を信じている。私はかかる日が現れて、朝鮮と日本との間に心からの友情が交わされる時の来るのを疑わない。」という一節がある。宗悦のいう「かかる日」はまだ来ていないのかもしれない。しかしながらその代わりに、宗悦の2つの著作は、現在でも理想的な日韓関係のための指針として、立派に存在価値を保っている。「景福宮」を訪れる多くの日本人観光客の皆様に対し、是非とも一読をお勧めする次第である。
 
 

現在の「光化門」(景福宮の中より見たもの)


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
  
 

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